2012年04月07日

第70期将棋名人戦がもうすぐ始まる

名人戦がこの10日から始まる。今期は森内名人に羽生二冠が挑戦という構図。去年のまったく逆である。ニコニコ動画のプロモーションによると、この10年間、名人位はこの二人だけで争っているのだそうだ。将棋の名人戦というのは、名人は迎え撃つ側なので特に何をせずとも名人戦を迎えることになるが、挑戦する側は順位戦というリーグ戦で優勝する必要がある。将棋の順位戦にはA〜C2まで実績ごとに五つのリーグがあるのだが、プロ棋士はまずフリークラスからキャリアが始まり、やがてC2、C1……というように昇級していく。そして上り詰めたA級順位戦で優勝して初めて名人に挑戦することができるのだ。要するにA級というところは猛者の集う場所であって、そんな場所で森内名人と羽生二冠は交替々々に優勝しつづけているということでもある。

ところで、最近の小学生には将棋が結構な人気を誇っているそうである。カードゲームといい将棋といい、これだけデジタルコンテンツが身近になると、逆に手で触れられるものに新鮮さを感じるということなのかもしれない。そんなことはともかく、そんな世相を反映してなのか、近頃ニコニコ動画は将棋連盟とやたらと仲が良い。今年のはじめに米長会長がボンクラーズと対戦して苦杯をなめたのは記憶に新しいが、あの棋戦の主催者のひとつであり、また生中継をしたのもニコニコ動画だった。この他にもタイトル戦や将棋祭りの中継なども盛んに行っている。

で、今年はなんと名人戦を全局中継するのだそうだ。去年の名人戦では宝塚でも対局があり、これ幸いとばかりに見物に行ったのだが、今年は最も近くて京都である。これはちと無理だなと思っていたところだったので、白林檎としても大変に喜んでいるところである。

考えてみれば将棋とネット生中継というのはなかなか相性が良い。ときには十時間にも及ぶ映像をだらだらと流しつづけることのできるテレビ局など、この世に存在しないであろう。放映に多大なコストがかかる割に、視聴する層が限られてしまうからだ。名人戦などの二日制タイトルともなればなおさらで、二日間合計二十時間近くもチャンネルを占有することなど、普通の放送局には不可能である。しかし、チャンネルという概念のないネット中継ならそれが可能になるのだ。もともと棋戦はFlashを使った棋譜中継などもあって、ネットとの相性は悪くなかった。ニコ動によってそれがさらに向上したと言える。

これは何も将棋に限ったことではなく、長時間に及ぶ試合の生中継、例えばプロ野球なんかにも格好の形態である。実際、すでに楽天の試合はニコ動で中継されている。ニコ動での中継ならば放送時間の延長によって予約録画に失敗するという悲しい現象もなくなるし、また途中で打ち切られることもほぼ無い。サッカーだって同じで、プレミアリーグか何かの中継も確か開始されていたはずだ。そういったメジャーなスポーツだけでなく、あまり世間で知られていない競技でも、ニコ動などのネット中継なら、従来よりずっと簡単にお茶の間に届けられるようになるかもしれない。これはなかなか楽しい事態だ。

最後の方はちょっと将棋から話が外れてしまったが、とにかく楽しい時代になったものだと思う。

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2012年01月02日

謹賀新年2012

本年もどうぞよろしくお願い申上候。

例によってほとんど年賀状を出していない白林檎であるが、昨年末は本格的に慌ただしく、客先に出す分ですら大晦日に投函するという有様であった。そういった訳で親戚筋を含め、個人的な挨拶がまだである。今後ぼちぼちと出していければと思っているが、心配されるといけないから一応ここで事情を申し述べておく。

2011年は激動の1年だった。震災以降、日本のあちこちで様々なことが変わった。のみならず、世界では経済状況がますます不穏になり、また国内外で大きな訃報も相次いだ。年末年始はひとつの区切りではあるが、それでも今日は昨日の延長線上にある。まだまだ先の見えない時間が続くのだろう。それでも少なくとも心の持ちようくらいは新たでありたいものだ。

何にしても今年も頑張っていこう。

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2011年12月10日

携帯電話の機種変更をした

来年から携帯電話用の電波の帯域割当が変更になり、一部のキャリア、つまりauの古い機種は利用できなくなる。これはどういうことかというと、白林檎の使っている機種が割当変更以後は不通になるということである。というので、今年の春頃から、auから機種変更の優待割引を案内するダイレクトメールが度々届いていた。この機種なら無料で交換しますよ、こっちの機種もこんなにお安くなりますよ、そもそもあなたの機種は来年から使えなくなるんですよ、さあ変えろ今すぐ変えろと、まさに矢の催促である。しかしぼくは生来メンドウなことが嫌いであるのと、長く使っていた日立の機種に愛着があったので、なかなかauショップに足を運ばなかった。

そうこうする内に夏モデルが発表されて、ちょっと気になる機種が出た。京セラのK009である。スタイリッシュな上に使いやすそうで、これが優待の対象になったら機種変更をしても良いと思えた。で、さらに時間が流れて11月の末頃、またauからダイレクトメールが届いた。そしてこれに件のK009が優待割引、それも無償交換対象と書かれていたので、ようやく変更してきたという訳である。

ところでぼくの使っているのはauであるから、当然iPhoneやAndroid搭載スマートフォンにも変更が可能である。それでもK009を、というよりいわゆるガラケーを中心に検討したのは、スマホが電話としては使い物にならないからだ。耳に付けて通話をしたら液晶画面に脂がべったり付きそうだし、何より電池の保ちが悪いのはいただけないと思ったからである。

こういうことを書くと「スマホを電話として捉えるのが間違っている」と言い出す人もいるだろうが、これは反論にはならない。スマホが電話としては使いにくいことを暗に認めているからだ。もっと言えばぼくと同意見な訳である。というより、これは機械マニアにとっては共通認識とでもいうべきもので、ガラケーが携帯電話に様々な機能を追加する方向で進化してきた機械であるのに対し、スマートフォンはごく小さなパソコンに携帯電話をくっつけたようなもので、はっきり言えば通話機能はオマケみたいなものなのである。スマホの携帯電話機能を通話に使わないなら何に使うのかといえば、Webやメールなどのデータ通信回線として使うのである。要するに、スマホは従来のケータイから機種変更する物というより、普段からノートパソコンを持ち歩いていた層が荷物を軽くするために買い足す物なのだ。

猫も杓子もスマートフォンというご時世に、少なくとも周辺からは機械マニアだと思われている白林檎が従来型のケータイにわざわざ機種変更したのは意外に思われそうだが、それは大体上記のような理由からである。確かにぼくはどちらかといえばスマートフォンが欲しい側の人間だが、どちらかひとつを選べと言われたら、今のところ必要なのは携帯電話の方だったのだ。また、一定の範囲内では常識と言えそうなことをこれまたわざわざ書いたのは、万が一キャリアのエライ人か何かの目にとまって、スマートフォン一辺倒な現状が改善されればと思ってのことである。

スマートフォンは素晴らしい機械だから持つ人には満足してもらいたいし、ユーザを満足させるだけのポテンシャルをスマホは確かに秘めている。実際、満足している人たちもたくさんいることをぼくは知っている。一方で、電池や料金のことなどで、不満の声が絶えないのも事実だ。おそらく携帯電話と勘違いして入手したそういう人々の怨嗟の声で、スマートフォンのブームに水が差されてしまってはもったいない。いっそのこと「次世代型携帯電話」という類の呼び方や煽り方は止めた方がいいのではないかと思う今日この頃である。

posted by 白林檎 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ITもしくはイット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月20日

HTML5

Flashの代替だのスマートフォン向けコンテンツ制作だの、そういう面ばかりが強調されるHTML5。そういう話ばかり耳にしていると何だかHTML3の時代に逆戻りするような気がして食わず嫌い的に敬遠していた白林檎だが、実際に触ってみたらまったくそんなことがなく、むしろHTML4よりも構造化文書を作りやすいので驚いてしまった。変な勘違いをして本当に申し訳ない。

アプリケーションがどうこうというのは無論JavaScriptやサーバサイドスクリプトと組み合わせた場合の話で、当たり前だがその点はHTML4の頃から何も変わっていない。それなのにこれだけ取り沙汰されているのは、HTML5から仕様に加わったcanvasが非常に柔軟だからだ。テストページを組んだついでにJavaScriptでcanvasと戯れてみたが、図形描画からピクセル画像の操作までかなりのことができるので、確かにちょっとしたアニメーションくらいならすぐにでもFlashの代わりが務まりそうである。

ただ、ブラウザだけで動くものというのは、いつの時代も互換性の問題が付き物だ。プラグイン動作でそれに考慮しなくて良いFlashはそれだけでやはり作り手にはありがたいし、それがOSベンダーの都合で徐々に潰されていくのはちょっと釈然としないものがある。HTML5そのものは素晴らしいものではあるが、選択肢がそれだけになってしまうのでは、Webに関わる者のハシクレとして、どうしても手放しでは喜べない。

まあ、そういったモヤモヤ感が残るにしても、HTML5は面白い。上記とは矛盾するようだが、ブラウザだけで動くものをエディタでちまちま作っていくこの感じは、それこそ90年代の、ブラウザもFlashも未成熟であった頃が思い出されて懐かしい。冒頭に書いたようにsectionやnavなど合理的な要素も増えているし、これが標準化される日が待ち遠しいというのも正直な気持ちである。我ながら複雑だ。

posted by 白林檎 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | ITもしくはイット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

北杜夫氏、ご逝去

スティーブ・ジョブズが亡くなって、Cの生みの親のひとりであるデニス・リッチーが亡くなって、LISPを考案したジョン・マッカーシーが亡くなったと思ったら、今度は作家の北杜夫氏が亡くなったとの報。ここのところの訃報の多さは一体どうしたことだろう。マッカーシーまでは「時代」というような言葉で済ませられたが、北氏ご逝去の知らせによる喪失感は個人的にどうしようもなく大きい。中学校に入ってすぐ、氏の『どくとるマンボウ航海記』を手に取っていなかったら、ぼくの人生は随分と違ったものになっていただろうから。

読者のひとりとして、謹んでお悔やみを申し上げます。今夜あたり何か読み返そう。

posted by 白林檎 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 白林檎的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月06日

Steve Jobs, 1955-2011

数日前、七冠馬シンボリルドルフが死んだ。トウカイテイオーの父馬であるし何といっても偉大な馬であったから、ブログに何か書きたいなと思っているうちに、今度はもっと大きなニュースが飛び込んできた。アップルのスティーブ・ジョブズが亡くなったというのである。今日のネット上は1日その話題で持ちきりだった。

既に9月には死亡していたとか、真偽のよくわからない様々な言説が飛び交ったりもしたが、その中でひとつだけ、おそらく誰かが冗談半分に言い出した「iPhone4SはiPhone for Steveである」というのは世間に記憶されても良いのではないかと思う。ぼくは今のところスマートフォンの類を持つ予定はないが(スマホを持ち歩くくらいならMacBookを持ち歩くから)、iPhone4Sは買っても良いかなとちょっと考えてしまったくらいだ。

アップルのトップページに彼の遺影が飾られている他、マイクロソフトのビル・ゲイツをはじめ、あちこちで哀悼の意が表されているが、個人的には、オバマ大統領のコメントの中にある次の一文がすべてであるように思う。曰く、「世界の多くが、ジョブズ氏が発明した機器で彼の死について知ったという事実こそが、彼の成功への何より素晴らしいはなむけだろう」(Digital Todayより引用)

ぼく自身は、彼がアップルを引退するときに書きたいことはあらかた書いてしまったから、改めてここで述べるようなこともほとんどないのだが、ただそのときの結びとした「もう一波乱」が永遠に実現しなくなったことは本当に残念でならない。氏のご逝去を心より悼みたいと思う。合掌。

posted by 白林檎 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | Mac | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月06日

台風12号

紀伊半島を襲った豪雨はあちこちに大変な被害をもたらし、日を追うごとにその惨状が明らかになってきている。被災された皆様には心からお見舞いを申し上げたい。

とはいうものの実はお見舞いなどと悠長なことを書いている場合ではないのである。カーブミラーや道路標識の首の部分まで水面が来ている写真で一躍全国にその名を知られることになった三重県紀宝町には、妻の両親と祖母が住んでいるからである。

あの辺りは台風がよく上陸する土地で、大雨が降ると近くの川からはあっけなく水が溢れ出し、標高の低い地域は比較的頻繁に冠水する。冠水どころか床上まで浸水することもよくあるようで、台風が過ぎた後に家財を屋外に持ち出して乾かしている光景を白林檎も見たことがある。だが妻の親戚の家があるところまで水が来るのはかなり稀で、さらに水に浸かったとなるとここ90年間では一度あったかなかったかくらいのことだったようだ。

とりあえず人間は皆無事ということで安心しているが、何しろ泥水が屋内を蹂躙した訳だから大変なことになっているだろう。手助けに行こうにも道路も電車も寸断されているのでどうにもならない。最低限のインフラが一日も早く復旧してくれればと思う。

posted by 白林檎 at 09:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 白林檎的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月26日

スティーブ・ジョブズの引退

このご時世、いい人は成功しにくいとかいう話がある。他人の意思を自分の意思と同等あるいはそれ以上に尊重するというのが「いい人」の要件だとすれば、まあ一面では真実なのかもしれない。見方を変えれば、「いい人」はリーダーシップにはやや劣るということになるからだ。といって、主張が強ければ良きリーダーになれるかといえばそうでもなく、あまり周囲から反感を買うようでは指導者失格である。この辺はなかなか難しいところだが、その主張が大勢の目に魅力的に映るなら、多少強引でも人は付いてくるだろう。

少し前にも触れたが、スティーブ・ジョブズはかような「強いリーダー」の典型であったようだ。かつて社会現象にもなったiMacにせよ近年のiOSデバイスにせよ、さらにはMacintoshシリーズそのものにせよ、彼の強烈な個性から誕生したものである。そもそも、ジョブズがスティーブ・ウォズニアックを半ば強引に誘ってApple Iを世に出さなければ、アップルという会社そのものが存在しなかった。だから今回のCEO辞任は、ジョブズがアップルのCEOでなくなったというより、アップルがジョブズの会社でなくなったという方が正解に近いように思う。

もっとも、アップルは過去に一度、ジョブズの手を離れていた時期があった。彼のようなタイプはスタートアップ期や混乱期には非常に強力に機能するが、それが一段落するとその独善性を煙たがられることがある。まさにそういう理由で、ジョブズは自ら立ち上げた会社を追われるという憂き目にあったのである。その後彼がどうしたかというと、新たな会社を立ち上げ、そこでの成果を手に混乱期のアップルに舞い戻ってiMacやMac OS Xを世に送り出すことになるのだが、その辺はいくらでも書籍が出ているからここでは割愛する。

冒頭の話に戻る訳ではないが、組織の安定期のトップには、どちらかといえば「いい人」タイプ、より正確に言うなら調整型が望ましいようである。ジョブズ型が二代続くと、二代目の方は何とか自分の個性を出そうとしてあらぬ方向に奮闘し、甚だしい場合には前任者の業績を否定するような事業を無理に創造した挙句、あえなくぶっつぶれることがあるからだ。その意味で90年代のアップルは不幸だったし、今回のCEO後任にティム・クックが選ばれたのは今後しばらくアップルの安泰を保証するものであるように思う。革新の後には充実が必要なのである。

問題はその次の段階だ。今現在、いくらアップルが魅力的な商品を多数抱えているからといって、その優位がいつまでも続くことは決してない。だから安定期の終わり頃にまたジョブズのような革新的なリーダーが出てこなければ、アップルはそう遠くない未来において過去のメーカーになってしまうだろう。90年代末にはジョブズがまだ壮年だったから良いが、次はもうおそらく戻って来ることはできないのだ(まだアップルを去った訳でもないけれども)。

まあそうなったらなったで、今度こそアップルがどこかに買収されるだけではあるのだが、あのリンゴのロゴは好きだから、アップルには末永く頑張ってほしいものである。あと個人的にはまたジョブズが会社を引っかき回して追い出され、妙なことをおっ始めるのに期待。

posted by 白林檎 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | Mac | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月23日

MacBookのバッテリ交換

いつの頃からだったか詳しくは覚えていないが、ある世代以降のMacBookにはクラムシェルモードという機能がある。蓋を閉じてスリープにした状態で外部ディスプレイや外部キーボードをつなぐと、あたかもデスクトップマシンの本体のように使えるというものである。クラムシェルモードのおかげで、普段は自室でデスクトップのように使い、気分を変えたい時にはいつもの環境をそのまま──モニタの広さやキータッチは変わるからそのままとはいかないが、そういったハードウェア環境以外はそのまま持ち出すことができ、大変便利なのである。

ここまで書けばおわかりだろうが、もちろん白林檎はこのようにして使っている。しかも出不精なので、我がMacBookの稼働時間の大半は電源コード繋ぎっぱなしのクラムシェルモードである。しかしながら、かような使い方は製造元としてはあまり奨められたものではないらしい。ノートパソコンのバッテリは充電と放電を繰り返すことを前提として設計されており、常に電源コードを接続して使っていると過充電が起きてしまうのだという。要するに、バッテリの劣化がより早まるのだそうだ。

これを避けるには大まかにいって二つの方法がある。ひとつは、電源コードを付けたり外したりして、電池残量を気にしながら使う方法。もうひとつはバッテリを装着せず、電源コードを繋げたまま使う方法である。有体に言ってどちらもメンドウ極まりない。

なので特に気にせずに使っていたところ、ある日ふと見てみればバッテリがパンパンに膨れあがっている。久しぶりにノートパソコン風に蓋を開いてみれば、トラックパッドのボタンなど押せたものではない。すぐ裏にバッテリがあるから、圧迫されて押し込めなくなっているのである。

過去、同じような状態になったMacBookをアップルストアのジーニアスバーに持ち込んだところ、無償でバッテリを交換してくれた事例があるようだ。このウワサは結構有名なようで、Googleでちょっと検索すると真偽を確かめようと身を張って検証したブログ記事がわんさか出てくる。だが、残念ながら、そういった試みの多くは失敗に終わっているようだ。ざっと眺めただけだが、正規品を購入するよりは安いが有償交換になるケースがほとんどであった。

アップルの正規品はすこぶる高い。なんと16,000円もする。同じように動作する互換品がその半額で売っているにも関わらずである。しかもその互換品というのが信頼の中国製であるので、選択肢は限られているに等しい。

だが、実は第三の選択肢が存在する。それは純正バッテリのバルク品を購入することである。これなら正規品の半額、信頼の中国製互換品とそれほど変わらぬ価格で入手できる。おそらく前述のジーニアスバーで交換してもらえる「正規品よりは安いが有償の」バッテリと同じものなのだろうが、これはもちろんアップルストアでは販売されていない。しかしバッテリ専門店なら取り扱っているところがあるので、そういうところを探せばよい。例えば白林檎が買ったところは楽天にも出店しているところだから、かなり簡単に見付けられるはずである。

それにしてもバッテリがダメになったのがぼくのMacBookだったから良いが、相方のMacBook Proが同様の状態になったらちょっと大変だ。ある時期から、アップルのノートはバッテリを自分で交換できない設計になってしまったからであり、相方のMacBook Proはその世代だからである。こうなるとそれこそジーニアスバーで有償交換してもらうか、新製品に乗り換えるかということになる。これでは数年ごとにマシンを買い換えていくという風潮にますます歯止めがかからなくなりそうで、機械好きな身としては非常に残念でならない。まあ相方は何の躊躇もなく買い換えるだろうけど。

ともあれ、思ったより安くバッテリを交換できて良かった良かった。消耗品が高いのはプリンタのインクだけで沢山である。

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2011年07月30日

ジョークの向こう側

中国人の「できました」と韓国人の「できます」と日本人の「できません」は信用するな、という、これは何というのだろう、ネットで定型化された一種の成句というかジョークというか、そういった文句がある。言うまでもなく中国人と韓国人を嘲笑する内容なのだが、これがどうしてなかなか、単に口をゆがめて笑うだけでは済まないだけの奥深さを持っていると思う。

ところで、ある国同士、特に隣国の国民同士がいがみ合っていたり蔑み合っていたりというのは、世界的に見てもそれほど珍しいことではない。日本人は中国人や韓国人を差別的な目で見ているといわれるが、中国や韓国に行けば日本人を蔑視している人だって少なくないので、これはまあおあいこである。こんなことは極東でなくとも日常茶飯事で、例えばイギリスとフランスがことあるごとに張り合うというか馬鹿にしあうというか、そういった関係にあるのは有名な話だ。英語でフランス風の何々というと下品あるいは低俗というニュアンスを含むことが多いし、イギリスでそう呼ばれる同じものがフランスに行くとイギリス風などと命名されていたりする。性に関する語句でこれは顕著なようで、イギリスとフランスの例にとどまらず、イタリアに行けばスペイン風だというし、スペインに行けばキューバ風だということになったりして、ヨーロッパくらい国境線が入り組んでいるとそれだけ関係性も複雑になってきて面白い。

さて、冒頭の言葉に戻ろう。

この言葉の何が面白いといって、日本人なら一読して無意識のうちに優越感を覚えニヤニヤしてしまうというのもひとつではあるが、そんなことより、内容を裏側から見たときに、それぞれのお国柄、あるいは社会構造がうっすらと浮かび上がってくるのが興味深い。

言っていることを信用するなというのがなぜかといえば、対象が気軽かつ頻繁にそれを口にするからである。イソップ寓話でオオカミ少年というのがあるが、裏付けなく繰り返される言葉は信頼度がそれだけ低くなる。つまり、中国人はできていなくてもできたと言うし、韓国人はできそうになくてもできると言うし、日本人はできるだろうと思ってもできないと口にする、そういった現象が、ある程度の範囲に通用する常識となるくらい広く認知されているということである。

これは、裏を返せば、どういう状況であれそう答えざるを得ないことが多いということを示している。すなわち、中国では「できていません」とは言えず、韓国では「できません」と言えず、日本では「できます」と軽々しく言えない、ということである。ここから、それぞれの国の人々が何を恐れるか、あるいはそれぞれの社会が何に対して不寛容であるかが、うっすらと透けて見えてはこないだろうか。

ネットに転がっているスラングあるいは差別的に見える表現の中には、ぎくりとするほど真実を突いているものがたまにある。例の文句は日本人の間のみならず、中国や韓国においてさえジョークとなりうるのではないかと思うが、どうだろう。

posted by 白林檎 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書算盤 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする