陽光に誘われてうっかり庭に出ると、すっかり春であった。なんと気持ちの良い季節だろうと思った途端に仕事をしているのが馬鹿々々しくなり、午後から六甲山牧場へ出かけた。六甲山牧場というだけあって、この牧場は六甲山の上の方にある。我が家は神戸といいつつ海の見えない六甲山系中腹の裏手にあり、ちょっとした避暑地のような趣で、桜なぞ今が満開の見頃を迎えている。ところが二十分程度走った先の山上はなお気温が低く、場内にたくさん植えられている桜の木々はよくて三分咲きであった。大阪や神戸の海手から来た人たちはずいぶん涼しい思いをしていたことだろう。
子供の頃、妻は動物の世話をする人になりたかったそうだ。結局そういった仕事には就かなかったものの、家ではぼくを含め十匹弱の猫を毎日世話しているから、まあ似たようなことをしているといえなくもない。しかしそれでも動物を見るとテンションが跳ね上がるらしく、ヒツジにヤギにと思うままに駆けていっては熱心に写真を撮っている。平日ではあるが、同じように写真を撮ったりしきりにヒツジを撫でたりしている客は意外に多く、わざわざ中国や東南アジアから訪れている人たちもいた。ぼくも動物は嫌いではないから、おずおずとヒツジの背中に手を伸ばしてみる。
伊丹に住んでいた頃、家族でどこかの牧場を訪れたことがあり、多分ここだと思うのだが、何しろ三歳か四歳頃のことなので定かではない。実家のアルバムにはコメント付きで写真が残っているはずだが、今そんなことを言ったって仕方がない。とにかくヒツジはそのとき以来である。子供の頃のぼくは臆病だったので、触るのはおそらくこれが初めてだろう。案外なけなしの勇気を振り絞ってつつくくらいしたかもしれないが、どちらにしろ覚えていないのだから初めてみたいなものだ。ヒツジという動物はあの外見からぬいぐるみのような手触りだろうと想像していたが、これがまったく違った。ウールというだけあって感触としては厚手のセーターが一番近い。そして順番に他の動物にも触っていくと、種によって触り心地がかなり異なり、これにも妙に感心した。殊にブタなどは毛というより細い針金のようである。そういえば豚毛のブラシは堅いものねと、妻も感心しながら言っていた。
ウサギからウシからちょっと珍しい在来馬までくまなく愛でて、軽く休憩して牛乳を飲むと、もう日が傾きかけている。ここでは15時半にシープベルを鳴らし、ヒツジを畜舎に入れて給餌することになっており、タイミング良くその様子も見物できた。広大な敷地のあちこちに散らばったヒツジがこの鐘ひとつで勢いよく戻ってくるんですよと飼育員のお姉さんが子供たちに説明していたが、食事の時間はヒツジの方できちんと心得ているらしく、ぼくたちが着いた頃には既に牧場中のヒツジが畜舎の前で列を成していた。それでも入り口の前で待機している群れが合図の鐘と共に建物に突貫していくのはなかなかの見ものであった。
それから少し買い物に寄って帰宅すると17時前で、ちょうど昨日から始まった将棋名人戦を観戦しつつ、ゆるゆると作業の続きをした。自分のペースで仕事をし、気ままに過ごす動物たちを眺めてくると、多くの人々が日々あくせくと過ごさねばならぬ現代社会がどこかおかしいように感じられるとでも書くのかなと人は思うだろうが、どっこいそんなことはないのである。これで教訓めいたことなど書こうものなら天罰の三つくらい当たりかねない。